2 二日目
「今日、光さんね、友達と一緒に図書館に行くそうよ」
朝食のパンをオーブントースターに入れながら、優香はポソリと呟いた。サラダを盛り付ける望の手が、ぴたりと止まる。
「昼にいるのは私とあなた、恵美さんと真一郎さんだけね」
「‥‥そうですね」
「狩り? それともパーティー?」
期待に満ちた声が、背後からしてくる。優香はまるで雨の日に初めて新品の傘を使う少女のように、声を弾ませていた。望は落ち着かない様子で、レタスを千切る。何かの関係を千切るように、乱雑に千切る。
「‥‥多分、今日は狩りの方だと思います」
「えっ? いきなりあの女の子を殺しちゃうの?」
「いえ‥‥。知ってると思いますけど、もう一人地下室に人がいるんです。真一郎さんがあの子はもう飽きたからって」
「そう‥‥。思ってた以上に残酷なのね、真一郎さんて」
「‥‥大抵、皆そうですよ」
一体どうなってしまうのだろう、という不安が望の頭からは離れなかった。いつものように恵美がライフルを持ち、いつも通り追い詰めて殺すだけで終わるのだろうか? それだけでは終わらない気がする。きっとこの人が何かするはずだ。誰も予想出来ないような何かを。
「私ね、面白い物持ってるの。狩りの時に持ってくるわ」
コーンポタージュをカップに注ぐ優香。その時に言った言葉は、望にその嫌な予感をほぼ確信的なものにした。
「スープが冷めちゃうわ。早く持っていきましょう」
望が優香の姿をまともに見ないまま、優香はコーンポタージュを持って台所を後にした。
優香の言った通り、光は朝食を終えた後、友達と一緒に図書館へと行ってしまった。その友人は光よりも二つ年上で、車で屋敷の門の前で待っていた。余所行きの簡単な服装をした光が車の窓から顔を出す女の友達に、待った? と明るい声で言う姿を、望は二階の窓からじっと眺めていた。
望が部屋でじっと車が遠ざかっていく光景を眺めながていると、部屋に恵美が入ってきた。いつものように古びたドレスを着て、手には大きなカバンが握られている。その中身は間違いなくライフル銃だった。
「優香さんは主人の書斎で何かやってるみたいだから、しばらくは外に出ないわ。さあ、やりましょう」
「ああっ」
望はまだ真一郎と恵美に優香の事を伝えていなかった。言えなかった。言えば、恵美はライフルで優香を殺しかねない。だが、あの場に優香が現れたとしても、彼女はおそらく同じ行動をとるはずだ。結局、早く来るか遅く来るかだけの違いでしかない。しかしそれでも、望はその事を恵美に切り出せなかった。
車が遠ざかる音を聞きながら、望はあの草原を思い出していた。
今日、あそこには誰の深紅の花が咲くのだろうか。
草原はいつかのように、穏やかな風の中に静かに佇んでいた。黄緑の草花が、いつものように恵美と真一郎、そして望を迎えてくれている。言葉も挨拶も無く、ただ無言で何もせずに迎えてくれる。この草花達は自分達の事をどんな風に見ているのだろうか。蔑んでいるのだろうか。いや、草花は何も言えない。何も見る事は出来ない。一体自分は何に助けを求めようとしているのだろう、と望は頭を振った。
「真一郎。もう男の子は放してあるの?」
「ああっ、この草原のどっかにいるだろうよ‥‥」
真一郎は煙草の煙を空に振り撒いた。それを恵美がじっと見つめている。赤髪がしっとりと背中で舞っている。真一郎はその髪をいとおしそうに撫でると、恵美はくすぐったそうに背中をひねる。高校生同士の戯れ合いのようだったが、望の小動物のような瞳は、そんな二人をまじまじと見る事すら出来なかった。
風は殆ど無い。雲も無い。太陽が青い空にぽっかりと浮かび、三人を照らしている。少し暑いくらいだ。
望は落ち着かない様子で、Yシャツの胸元を開けたりしている。そして、やがて太陽は四人を照らすようになった。四人目は少年ではない。
「ごめんなさい、待たせちゃった?」
望は静かに首を曲げた。そこには大きなカバンを手にした優香がいた。動きやすいようにだろうか。ジーパンに白いYシャツという姿だった。
望の背筋がセメントを流し込んだように固くなる。息を呑み、落ち着こうと努力するが体が動かなかった。しかし、次の瞬間に望が目にしたのは意外な光景だった。
「‥‥随分と遅いんですね」
恵美はゆっくりと優香の方に体を向けると、如何にも退屈でしたと言わんばかりにライフルの銃身を肩に乗せる。動揺も緊張も、何も無い様子だった。真一郎が恵美の口に今までくわえていた煙草を差し込む。恵美は大きく煙を吸い込むと、近付いてくる優香に向かって吹き付ける。優香は瞳を微かに細め、声を出さずに笑う。
「ちょっと準備に手間取っちゃって」
まるでハイキングか何かに遅れたかのような感じで、優香は恥ずかしそうに頭を掻いた。恵美は肩でため息をつくと、ライフルを戻す。そして、意味ありげな微笑を望に向ける。望は何が何だかさっぱり分からない様子で、その微笑を見返す。
「真一郎から全部聞いてたの。でも、子犬みたいにビクビクしてる望さんって珍しいから、黙ってたのよ。ごめんなさいね」
恵美はわざとらしく舌を出して、ライフルで望の体を軽く突いた。金縛りから解かれたように、その衝撃で望の体から痺れが消える。自然と大きなため息が漏れた。
望を三人が囲む。そして、子供の騙し合いのようにケタケタと笑い合う。望は怒っているのか笑っているのかよく分からない複雑な顔をして、その笑いを聞く。
「真一郎さんも、僕を騙してたんですか?」
「悪いな。俺は恵美の味方なんでね」
膨れっ面で自分を見る望を、真一郎はまだ笑いのおさまらない弛んだ顔で返す。望は怒りのぶつけどころを失い、腹立たしげに空を仰いだ。空はまだ蒼い。
「ねぇ、そろそろ行かない? もう十分笑ったでしょ?」
一通り笑った優香は、息を戻してそう言った。その言葉が草原を再び静寂にする。声が消えると不意に草が揺れる音が聞こえだす。心地好い新鮮な空気が、体に触れて通り過ぎてゆく。八つの瞳が風に流れるように草原の彼方へとそそがれる。そこにはもう笑いは無く、凍えるような眼差しだけが浮かんでいた。
優香はおもむろに持ってきたバッグを開けた。三人はその中身を見て、少しだけだが唾を飲み込んだ。中には恵美の持っている猟銃に近いライフルなどではなく、映画などで出てくる黒光りしたオートマチックの拳銃と、リボルバータイプの拳銃、そして無数の弾丸が無造作に詰まっていた。
「どこからこんな物を?」
恵美が目を丸くして優香に訊ねる。優香はオートマチックの拳銃を手に持つと、慣れた手つきで弾倉を確認し、ハンマーを起こす。
「趣味みたいなものよ」
それだけ言うと優香は拳銃を腰に差し、バッグを望に渡した。腕に無数の弾丸の重さが一気に乗っかり、望はバランスを崩す。優香の手が左右に揺れる望の肩を掴む。その時の優香の手の力は恐ろしい程強く、望には感じられた。
長い黒髪を揺らし、草原の中を歩きだす優香。拳銃を手にした優香は人が変わったようだった。それは昇といる時、望の体に擦り寄った時、それどちらの時でもない顔だった。凍り付いたかのような美しく白い頬をピクリとも動かさず、瞳だけが嵌め込められた宝石のように不思議に目立った。
その変化に言葉を失いながらも、三人は後についていく。髪の毛が広がると隠れてしまう程華奢な背中を見つめながら、望は昨日のバスルームでの出来事の時から思っていた事をふと口にした。
「どうやって、この事を知ったんですか?」
それを聞き、恵美と真一郎も優香の背中を見る。優香の歩くリズムは全く乱れず、髪の毛だけが右足を出す度にふわふわと揺れる。望の言葉から十秒程してから、優香は振り向かずに言い放った。
「私達、屋敷の外でも会ってたじゃない。仮面をつけてだけどね」
無数の銃弾が逃げ惑う少年の周りを飛び交う。背中や肩、太股から既に血が吹き出ている。真っ赤な血の飛沫が黄緑色の草原にポタポタと滴れる。それでも、少年は走る。泣きながらも、止まらずに。
「‥‥一度やってみたかったのよね、これ」
優香は細い煙の漏れている拳銃をいとおしそうに抱き締める。本当に楽しそうな顔だ。初めてだと言っていたが、全く躊躇する事無く、少年を見つけるとすぐに引き金を引いた。望に弾の詰め替えを任せて、優香自身は何丁もの拳銃を交互に使った。その光景に恵美ですら少し驚いた様子だったが、やがて優香の雰囲気に呑まれたのだろうか。優香に負けじとライフルの引き金を引いた。
「二人はやらないの? 楽しいのに」
「見てるだけでいいんだ。俺はこの後が好きだから」
真一郎が血の付いた草を弄びながら言う。優香はそれもいいかもね、と小さく言うと既にビー玉よりも小さくなった少年に向かって拳銃を撃った。遠くの方でギャッという何かが潰れるような音がした。そして、ビー玉は消えて無くなった。四人はゆっくりとその方向へ歩いていく。
望の口から半分程無くなった煙草を奪い、美味しそうに吸う優香。恵美よりもふくよかな胸が小さな起伏を描き、同時に優香の口から白い煙が糸のように細く吐き出される。優香は蔑むような瞳を少年の倒れた草原に向ける。それは望や真一郎が感じた、射抜くような鋭い視線とは違い、懐かしむかのような、そんな僅かだが穏やかな瞳だった。
「こっちにいると安心するわね」
優香は独り言だと言いたげに、空に向かって言う。しかし、それは三人に確認をとるような感じにも聞こえた。
「狩りなんてどこが楽しいのかしらって、この前テレビを見ながら思ってたんだけど、やっぱり楽しいわね。だって、自分は絶対に死なないんだもの」
優香は煙草の煙を撒き散らしながら先頭を歩き、時たま振り向いては三人の顔を観察するかのように覗き見た。三人はそんな優香にどんな顔を見せればいいのか分からなかった。しかし、三人共、優香の言っている事の意味ははっきりと理解していた。
この狩りで手に入れる事が出来る物は三つあった。一つは支配しているという優越感、一つは自分が生きているという生の実感、そしてもう一つが自分に危険は無いという安心感。優香は今、その全てを肌という肌から感じていた。
少年は木にもたれて、ひいひい言いながら腹部から流れる血を懸命に手で押さえていた。前の少女のように全裸で、恵美しか知らない性器が、力無く縮こまっている。少年はゆっくりと顔を上げて、拳銃を向ける優香を睨み付けた。しかし、その瞳も、優香には嘲ら笑う材料にしかならなかった。
「いいわよ、その目。昔の私そっくりだわ」
優香は目線が少年と同じ高さになるようにしゃがみこみ、そのこめかみに拳銃を突き付けた。少年の目が当ても無くうろつき、性器から小便が数滴落ちた。その後ろで恵美と望と真一郎が立っている。誰も優香の行動を止める者は無く、ただその場に立ち尽くしている。公開処刑を見物する無関係の野次馬のように。
「最期に何か言いたい事はない? たくさんあるでしょう」
言う事を聞かない子供を諭すように、優香は優しく丁寧に言葉を紡ぎだす。少年は血に濡れた手で優香の持つ拳銃を掴んだ。しかし、傷を負った少年にはその拳銃を奪うだけの力も残されていなかった。少年は震える声で言う。
「‥‥何で殺すんですか? 僕を孤児院に帰してください」
優香はお腹を抱えて笑いだした。息をするのにも苦しいらしく、ハアハアと息を切らしながらも、込み上げてくる笑いを抑えられなかった。それはさっきの望を騙した時の笑いとは全く違っていた。
「あなたはまだ子供だからまだ分からないのかもしれないけどね、この世の中には大きく分けると二種類の人間しかいないの。それは勝つ者と負ける者。ダイヤモンドとガラス。あなたは負ける人間、ガラス細工だったのよ。だから、勝つ者の私達にはあなたを支配する権利がある。殺す理由はね、そんなものよ」
少年は顔を醜く歪ませた。そんな理由で、とでも言いたそうな顔だった。それを相変わらずの笑い顔で見つめる優香。彼女は拳銃を乱暴に振り払い、少年の手から放した。そして、立ち上がると真剣な顔つきになって少年を見下ろした。
「あなたのお父さんもお母さんもあんまり変わらないのよ。偉い人にへつらって生きているの。ただ、殺されないだけ。そして、いつか自分達も他人を扱き使う立場になれる、と思い込んでる。馬鹿よね」
「悪く言うのはやめろ」
それが少年の最期の言葉だった。その憎しみのこもった言葉を聞いた優香は、うるさい、と怒鳴って拳銃をやけくそになって乱射した。顔に四発、体に三発の銃弾がめり込み、後ろの木に血がべったりとへばりついた。少年の体は壊れたぜんまい仕掛けのロボットのように震えている。傷口から溢れる血が、まるで機械の油のように流れ、そして油が切れたロボットは停止してしまい、動かなくなった。
「親が馬鹿だから、あんたも馬鹿なのよ」
優香は再び望の口にくわえている煙草を奪い取ると、不機嫌そうに吸った。それを冷静に見つめる望。望は優香の手からゆっくりと拳銃を抜き取ると、バッグの中にしまこんだ。 恵美はライフルを少年の死体が寄り掛かっている木に立て掛けた。そして熱そうに胸元をパタパタとはだけされる。
「熱いわね。まだ体が火照ってるみたい‥‥」
少年の死など、恵美にはどうでもいい事だった。いや、他の三人にとっても同じだった。優香の言う事は間違っていない、と皆思っていた。
人生はゲームなのだ。リセットが効かず、死んだらそれで終わりのゲーム。自分達は主人公なのだ。そして、多くのモンスターを殺す事によって強くなる。あの少年はモンスターだったのだ。いつまで経っても主人公にはなれない。それはゲームが始まる前から決まっていた事だったのだ。
真一郎が煙草を草原の中に吐き捨てた。そして、まだ不機嫌そうに煙草を吸っている優香の体に腕を絡ませた。
「いつもの優香さんらしくないですね」
「私を慰めてくれるの?」
「ええっ、努力はしましょう」
「‥‥ありがと」
真一郎の手が優香の豊かな胸を鷲掴みにする。優香は悩ましげに髪の毛を振り払うと真一郎の首元に舌を這わせる。少年の血がこびり付いている木に背中をあずけ、真一郎は優香の唇に吸い付く。望がゆっくりと恵美に近づく。恵美がにんまりと笑い、胸元をより大きく開いた。
「望さんの方から来るなんて珍しいわね」
「‥‥何ででしょうね、自分にもよく分かりません。でも、今は狂おしい程にあなたの赤髪に触れたい」
望は確かに感じていた。凄まじい形相で少年が死んでいくのを見て、確かに込み上げてきた喜びと愉悦。そして、少年が最期に言った言葉。あれが、血が逆流するような苛立ちを生んでいた。何か別のもので苛立ちを包んでしまいたかった。そして、目の前にあったのは肉体の快楽だった。背中を掻きむしるような苛立ちがいやらしく胸を開ける恵美を抱け、と囁いていた。
望は恵美の赤い髪の毛を乱暴に触れると、その少し汗のかいている額に口付けをした。ほんの少し塩辛い味が、口の中に広がる。額から目、そして鼻へと唇を動かしていき、唇と唇が触れ合うと恵美の舌を力一杯吸った。恵美はまだ冷めない熱い吐息を望に吹きかけながら、彼の手を自分の下半身へと誘う。恵美の下半身は服越しでもはっきり分かる程に濡れていた。望の愛撫がそうさせたのか、それとも少年の死体がそうさせたのか。
木は不思議な空気に包まれていた。物言わぬ死体に成り果てた少年の死骸の死臭、そして一心不乱に快楽を貪り合う四人の男女の湿った息と愛液の匂い。木の上の方では濃い緑色をした葉が繁り、無数の木漏れ日を五人の上に落としている。
全裸になった優香と恵美の体の所々に少年の血がへばりつく。優香はそれを自分の愛液で濡れた手で擦る。その指を真一郎に舐めさせる。真一郎は優香の瞳を見つめながら、その指をしゃぶった。
美味しい? と優香が聞くと、真一郎はたっぷりとそれを味わいながら、ゆっくりと答えた。
「はい、とても」
四人が草原の中にいる時、光は一人屋敷の中にいた。図書館に行こうとしたのだが、あいにく図書館は閉館していた。仕方なく帰ってきたのだが、人一人いない屋敷の様子に少し戸惑っていた。
皆はどこにいるのだろう、と屋敷の中を当ても無くうろつきながら思う。
光は本当に何も知らなかった。優香の言った通り、鈍感だった。あまり屋敷から出る事も無く、都会の流行もあまり知らず、女子校の為男性にもあまり巡り合わなかった。まさしく、篭の中の鳥のような少女だった。そのせいもあり、他人の秘密事に首を突っ込むような事も、彼女は無かった。
静寂に包まれた屋敷の中は光にとっては見慣れた光景だった。トイレや風呂も各部屋にある為、夜一人で出歩くという事も少なく、恐怖のようなモノも感じなかった。光にはこの屋敷の前に住んでいた家をあまり覚えていない。母もこの屋敷で死んだ。父も母が死んでからだが、頻繁に顔を見せるようになった。だから、以前の家よりもこの屋敷の方が光には印象が強かった。
本当に皆、どこに行ったのだろう。望がいない事はしばしばあったが、恵美や真一郎までいなくなる事は稀だった。少なくとも光にとっては、稀の事だった。
時間はもうそろそろ正午になろうとしていた。長い長い廊下にははっきりと強い日の光が窓の形となって落ちている。窓から外を見てみると、果ての見えない草原が広がっている。この草原のどこかに四人の淫らな姿があるはずだった。しかし、屋敷からその姿が見えるはずもない。
食堂にまで来た。誰かが食事をしていると思ったからだった。しかし、その期待を裏切り、食堂はがらんとしていた。たった六人しかいない屋敷には、あまりにも大きなテーブルと数えきれない程の椅子。それが冷たく光を迎えている。人のいない食堂はどこか寂しげな雰囲気がある。
「‥‥」
どこかで音がしたのを、光は確かに聞いた。何かを漁るような、ガサゴサとした音。どこでしたのかは分からない。食堂があまりも広い為、音が反響したのだ。しかし、確かにこの食堂の近くで音がした。光はゆっくりとした足取りで、食堂の中に入った。また音がする。どうやら、食堂からではなく、料理を作る台所の方からだった。
恵美か誰かが昼食を作っているのだろうか? それにしては、何の匂いも漂ってこない。匂いの無い空気しか、光の鼻は感じない。光は歩幅を増やし、台所へ向かった。
台所に誰かがいた。しかし、恵美でも無ければ真一郎でもなかった。見た事も無い人だった。
女の子だった。
冷蔵庫を開けて、中の物を漁っている。光に背を向け、開けっ放しの冷蔵庫の前に座り込んでいる。ケーキやシュークリームのような甘い物を見つけると、少女はパクパクと食べだした。光の存在など全く気づいていない様子だった。
「‥‥あなた、誰?」
光は食器棚の隅に身を半分隠しながら、その少女に言った。
その瞬間、少女の手が止まり、振り返った。口にはまだ半分ほどショートケーキが顔を出している。大きな瞳に、首筋まで伸びている美しい栗色の髪の毛。少女、舞夜は光の姿を見つけると素早くショートケーキを口の中に詰め込み、ミルクを一口飲むとスッと立ち上がって光に深々とお辞儀をした。そのあまりにも敵意の感じない態度に、思わず光も頭を下げてしまった。
舞夜は辺りに散らかっているゴミを掻き集めると着ている服のポケットに無理矢理ねじ込み、そして苦々しく笑った。見なかった事にしてくれ。そう言いたげな顔だった。
その仕草があまりにも可愛らしかったので、光は小さく微笑んだ。自然と足が舞夜の所へ向かう。
「‥‥可愛い。ねぇ、あなた、名前は何て言うの?」
「‥‥」
舞夜の前まで来た光は、しゃがみこんでそう訊ねた。舞夜は少し戸惑った顔をする。そして、ゆっくりと口を開けた。光は眉をしかめながら、口の中を覗く。そして絶句してしまう。少女には、舌が半分無かった。
「‥‥どうしたの? その舌」
「‥‥」
当然、答えは返ってこなかった。光は悲しそうな瞳で舞夜の頭を撫でる。肩を軽くすぼめた舞夜は、どこか哀しげな微笑みを光に送った。
半開きになっている冷蔵庫を閉めた光は、舞夜の少し黄ばんでいる服についているケーキのカスを払い落とした。何日か風呂に入っていないのだろう。舞夜の体からは嫌な匂いが出ている。光は流しに置いてあった新品のタオルを水につけ、舞夜の顔や首元、手などを簡単にだが拭いてやった。舞夜は何の抵抗も示さず、タオルで自分の体を拭いている光をじっと見つめていた。
この少女が誰で、一体何故ここにいるのか。そういう疑問は相変わらず光の頭の中からは離れなかったが、何故だかそういう事はどうでもいい事のように感じた。自分に対して全く敵意を抱いていないからか、それともただ単に自分に警戒心が無いだけなのか。それとも、この少女があまりにも幼い頃の自分に似ているからか。どれにしろ、光はこの少女に対して猜疑心のようなものが無かった。
舞夜は勝手にここに来ていた。真一郎が男の子を放す時に、うっかり地下室の扉の鍵をかれるのを忘れていたからだ。日に三回の食事はもらえていたのだが、日の光も無く、何もする事が無いあの部屋に飽きていた舞夜は、扉の鍵が掛かっていない事を知ると勝手に屋敷の中に入ってきてしまった。そして、歩いている内に食堂を見つけ、冷蔵庫も見つけたので何か食べる物は無いだろうか、と冷蔵庫を漁っていた。そこに光が通りかかった。 舞夜は光を見て、不思議な感覚を覚えていた。大きな自分がいる、そんな感想を抱いた。そして望にも恵美にも感じなかった懐かしい親近感を、光に対して見出だしていた。何故かは分からないけれど、この人だと安心する。光に頭を撫でられながら、舞夜はそんな事を考えていた。この人は髪の毛の柔らかそうなあの男の人や髪毛の女の人からは感じない何かを感じる。
「ねぇ、こんな所にいるのもつまらないから、私の部屋に来ない? 漫画本とかぬいぐるみとか、たくさんあるのよ」
タオルを流しに置くと、光は舞夜の手を引いた。しかし、舞夜はすぐに手を放してしまう。どうしたの? と光が聞くと、舞夜は一瞬戸惑ったような表情を見せた。それは相手を蔑むような表情ではなく、何か別のものに怯えているような顔だった。
そして舞夜は走りだして、食堂から出ていってしまった。意味が分からず慌てて光も後を追うが、食器棚の角に足をぶつけてしまい、廊下に来た時には少女の姿は見えなくなっていた。
まだ痺れている足を擦りながら、光は誰もいなくなった廊下を見つめていた。
それからしばらくして、四人が屋敷に戻ってきた。